THEMA1
降り立ったそこは
「誰ひとり日本語を話さない」街。
10数年前。
「ボンジョルノ(こんにちは)」「グラッツェ(ありがとう)」…出発前に覚えられるだけのイタリア語単語を頭に詰め込み、「成功するまでは帰らない」その決意だけをひたすら反復していた、わずか17歳の高校生。
サッカーにかける情熱と愛だけは誰にも負けない、誰よりうまくなりたい、誰より強くなりたい、誰もできないことにチャレンジし、誰にもできなかったことを成し遂げたい。サッカーを志した少年誰もが『いつかは!』と思う夢…そこへの思いは、誰よりも強かったのは確か。いつか「世界戦のピッチに立つ男」を夢見ていた少年、その前途は決して順風満帆ではなかった。
夢と希望。「絶対にやってやる、やるまで帰らない」熱い決意を心に秘めて。
かつて高校生の私を、イタリア留学への道へと導いてくれた、あるイタリア人男性がいました。有名チームの代理人を務める彼が話してくれたイタリアサッカー留学の話は、とても衝撃的で魅力的でした…国内で名門と言われた神戸弘陵学園、それも特待生という扱いで進学、「絶対にサッカーで有名になりたい!」と将来への夢と向上心にあふれる若い私を焚きつけるには、十分刺激的すぎる内容だったのです。
まだ17歳。先の長い人生を考えればあまりに大切な時期に、突拍子もない決断をする息子。ただその志を尊重し、思いを理解してくれ、決して安くはない渡航費用から代理人への手数料、その他諸々、これらを負担してくれた両親のために。そして「えっ海外?それもイタリア?」「無茶じゃないの?」「ダメだったら…」「いや、きっとアキラなら…応援してるよ!」「がんばれよ!」さまざまなチームメイトの声、見送ってくれた恩師の気持ちにも応えるためにも「オレは成功するしかない!成功するまでは絶対に帰らない!」その一念でした。大きなスーツケースには詰め込めるだけの荷物、そして飛行機の中では友達からのたくさんの手紙を何度も読み返し、それを握りしめながら「絶対にやってやる!」という闘士を燃やしていたのです。今の私の原点、そういう意味では、本当のスタートはあの「扉をあけた瞬間」だったのだと思います。
夢と希望。
「絶対にやってやる、やるまで帰らない」
熱い決意を心に秘めて。
かつて高校生の私を、イタリア留学への道へと導いてくれた、あるイタリア人男性がいました。有名チームの代理人を務める彼が話してくれたイタリアサッカー留学の話は、とても衝撃的で魅力的でした…国内で名門と言われた神戸弘陵学園、それも特待生という扱いで進学、「絶対にサッカーで有名になりたい!」と将来への夢と向上心にあふれる若い私を焚きつけるには、十分刺激的すぎる内容だったのです。
まだ17歳。先の長い人生を考えればあまりに大切な時期に、突拍子もない決断をする息子。ただその志を尊重し、思いを理解してくれ、決して安くはない渡航費用から代理人への手数料、その他諸々、これらを負担してくれた両親のために。そして「えっ海外?それもイタリア?」「無茶じゃないの?」「ダメだったら…」「いや、きっとアキラなら…応援してるよ!」「がんばれよ!」さまざまなチームメイトの声、見送ってくれた恩師の気持ちにも応えるためにも「オレは成功するしかない!成功するまでは絶対に帰らない!」その一念でした。大きなスーツケースには詰め込めるだけの荷物、そして飛行機の中では友達からのたくさんの手紙を何度も読み返し、それを握りしめながら「絶対にやってやる!」という闘士を燃やしていたのです。今の私の原点、そういう意味では、本当のスタートはあの「扉をあけた瞬間」だったのだと思います。
右も左もわからない街。そこは誰ひとり日本人、知人もいない街。
「ある事件」そのおかげで、サッカーはさておき、まずはイタリア語をひたすら覚えるという予想外の舞台に立たされました。
イタリアの空港に到着、まずは滞在許可やチームの用意してくれた寮へ…実はここからの全てを自分の手で行う必要があったのです。そう、あのイタリア人代理人は大金を持って到着そうそうに姿を消したのです。
日本人、日本語を話せそうな人すら一人もいない場所で、不安に押しつぶされそうになりながら、ただ「どうにもできないが、とにかく、どうにかするしかない。」覚えたてで片言のイタリア語で、地図を頼りに自力で目的地まで…そこで助けられたのはイタリア人の親切さ、明るさでした。根っからフランクで、フレンドリーな彼ら。そのおかげで、どんどんイタリア語も吸収できましたし、数日もたてば顔見知りも自然に増えてゆきました。
右も左もわからない街。
そこは誰ひとり日本人、
知人もいない街。
「ある事件」そのおかげで、サッカーはさておき、まずはイタリア語をひたすら覚えるという予想外の舞台に立たされました。
イタリアの空港に到着、まずは滞在許可やチームの用意してくれた寮へ…実はここからの全てを自分の手で行う必要があったのです。そう、あのイタリア人代理人は大金を持って到着そうそうに姿を消したのです。
日本人、日本語を話せそうな人すら一人もいない場所で、不安に押しつぶされそうになりながら、ただ「どうにもできないが、とにかく、どうにかするしかない。」覚えたてで片言のイタリア語で、地図を頼りに自力で目的地まで…そこで助けられたのはイタリア人の親切さ、明るさでした。根っからフランクで、フレンドリーな彼ら。そのおかげで、どんどんイタリア語も吸収できましたし、数日もたてば顔見知りも自然に増えてゆきました。
一人になってあらためて痛感した。「どれほど恵まれていたのか」。
初っ端から波乱で幕を開けたイタリアでの生活でしたが、その後もまだまだ順調とは程遠く、当面は文字通りハングリーな生活を余儀なくされました。考えてみればわかります、ついこの間までは実家で寝て食べ、学校で練習…それが今、プロとはいえ下部チームでは給料は決して多いとは言えない、。街で見知ったサポーターが招いてくれた夕食につい甘えてしまったり、ほんとうにどうしようもなかった時は、近所の家庭をノックして周り、頼み込んで食事をとらせてもらったり。お返しにできることといえば、はるか東洋の日本という島国について、たどたどしいイタリア語で紹介すること。そして彼らの大好きなカルチョの話。本当に、そうでもしなければ、食べていくことも難しい現実でした。だから常に心のなかで、お世話になった人々に両手をあわせ、「いつか、有名なプレイヤーになる。活躍する姿をみてもらう。自分の載った新聞を手にしてもらう。」それが、自分にできる最大限の恩返しだと思い、その都度自分を鼓舞していました。
日常生活でも日本の常識は通用しないことなどしょっちゅう。たとえばバスに乗るだけでも数時間かかったり、ただ乗るだけでさえです。イタリアのバスはバス停で手を挙げなければ停まってくれない…そんなルールすら知っているはずもありません。ちなみに、この話は語学スクールの担任に話すと笑われましたが、何周かした運転手にはきっと「あの東洋人、乗りもしないのにかれこれ数時間…おかしなヤツだ」と思われたことでしょうね。体調管理では、慣れない風土や住環境で、つい風邪をひいても助けてくれる人がそばにいるわけでもなく…ただただ心細かったのを覚えています。日本で甘やかせてくれた家族、恵まれた環境に、あらためて感謝の気持ちがあふれていました。
一人になってあらためて痛感した。
「どれほど恵まれていたのか」。
初っ端から波乱で幕を開けたイタリアでの生活でしたが、その後もまだまだ順調とは程遠く、当面は文字通りハングリーな生活を余儀なくされました。考えてみればわかります、ついこの間までは実家で寝て食べ、学校で練習…それが今、プロとはいえ下部チームでは給料は決して多いとは言えない、。街で見知ったサポーターが招いてくれた夕食につい甘えてしまったり、ほんとうにどうしようもなかった時は、近所の家庭をノックして周り、頼み込んで食事をとらせてもらったり。お返しにできることといえば、はるか東洋の日本という島国について、たどたどしいイタリア語で紹介すること。そして彼らの大好きなカルチョの話。本当に、そうでもしなければ、食べていくことも難しい現実でした。だから常に心のなかで、お世話になった人々に両手をあわせ、「いつか、有名なプレイヤーになる。活躍する姿をみてもらう。自分の載った新聞を手にしてもらう。」それが、自分にできる最大限の恩返しだと思い、その都度自分を鼓舞していました。
日常生活でも日本の常識は通用しないことなどしょっちゅう。たとえばバスに乗るだけでも数時間かかったり、ただ乗るだけでさえです。イタリアのバスはバス停で手を挙げなければ停まってくれない…そんなルールすら知っているはずもありません。ちなみに、この話は語学スクールの担任に話すと笑われましたが、何周かした運転手にはきっと「あの東洋人、乗りもしないのにかれこれ数時間…おかしなヤツだ」と思われたことでしょうね。体調管理では、慣れない風土や住環境で、つい風邪をひいても助けてくれる人がそばにいるわけでもなく…ただただ心細かったのを覚えています。日本で甘やかせてくれた家族、恵まれた環境に、あらためて感謝の気持ちがあふれていました。
チームでは「日本人?本当にサッカーできるの?」という偏見
本題のチームでも悩みはありました。当時、日本人選手は彼らにとって珍しかったわけですし、ヨーロッパ人の先入観として「アジアはサッカーの文化や歴史も浅い、当然自分たちよりも下手だろう、身体だって小さいから」という明らかに見下したイメージが強かったでしょう。そして、もともと冗談好きな性格なのはあるとしても、時には屈辱的な…侮辱的な言葉に傷つけられた時も。プレーでは自分だけはなかなかパスをもらえない、誰の目にも決定的なチャンスでも自分にだけはボールを出してもらえず…ということも散々ありました。本当に悔しかった、悔しかったけれど「やっぱり…自分の力を認めてもらい、一員としての信頼を得るしかない。そのためにも…練習とコミュニケーションしかない」そう思うしかありませんでした。
チームでは
「日本人?本当にサッカーできるの?」
という偏見
本題のチームでも悩みはありました。当時、日本人選手は彼らにとって珍しかったわけですし、ヨーロッパ人の先入観として「アジアはサッカーの文化や歴史も浅い、当然自分たちよりも下手だろう、身体だって小さいから」という明らかに見下したイメージが強かったでしょう。そして、もともと冗談好きな性格なのはあるとしても、時には屈辱的な…侮辱的な言葉に傷つけられた時も。プレーでは自分だけはなかなかパスをもらえない、誰の目にも決定的なチャンスでも自分にだけはボールを出してもらえず…ということも散々ありました。本当に悔しかった、悔しかったけれど「やっぱり…自分の力を認めてもらい、一員としての信頼を得るしかない。そのためにも…練習とコミュニケーションしかない」そう思うしかありませんでした。
THEMA2
最初に学んだのは、
「自分で手に入れていくしかない」ということ。
現代は誰でもネットで調べれば何でもわかる、何でも手に入る、とても便利な世の中。だが、そうではなかったことで、否応にも起こさなくてはならなかった行動、起こさねばと思う強い気持ち…それが気付かせてくれたこととは「自分に必要なものは、自分の目や耳を使って探し出し、見つけていかないといけない、さもなくば生きてすら行けない」という世界。「今となってはそれも良かったのかも」…そう言える域までは、まだあどけない少年にとって過酷すぎる道のりだっただろう。
ある夜、見た「…ダッベーロ?」(本当?)というイタリア語の夢
右も左もわからない異国の地、もし他の日本人が近くにいたなら、きっと日本人だけで固まってしまいそうなものです。でも、私はあえてそれを避けるように、すすんでイタリア人との交流に専念しました。一刻も早く、彼らの習慣や文化に溶け込み、彼らを知り、彼らに自分を理解してもらうことに専念するために。
その結果は思いのほか早い時期に現れました。3ヶ月弱たったある夜、とうとうイタリア語の夢を見たのです。「その世界」では、イタリアの仲間とイタリア語で会話している私がいて、それも極めて自然な雰囲気で。
これまで日本語だけで構成されていた脳が、イタリア語を受け入れたのだと思います。5~6ヶ月も経つころには、ふと頭で考えるのもイタリア語、自分の思った内容、それも微妙なニュアンスを含め、イタリア語ですらすらと話せるようになりました。イタリア語、そしてイタリア人の感性を学習し、彼らが普段使う「生きた言葉」で相手と意思疎通する。このコミュニケーションがもたらしてくれたものは「仲間との絆」でした。「あの日本人、いつも一生懸命頑張ってるよね」「アキラっていうんだって」「思ってたほど下手じゃなかったよ」「話してみたらいい奴だったよ」…ついにはピッチの内外問わず、大きく私の生活に影響しはじめます。
「一緒に帰ろうぜ、アキラ!」
「よう、アキラ!今日はウチでメシ食っていくだろ?」
「アキラ!あの新しく出来たお店、知ってる?」
「なあ、アキラ!もちろんお前も行くだろ?」
それまでひとりぼっちだった私を、仲間がいつも誘ってくれるようになり、連れ立って外出し、遊んだり食事したり…常に一緒に行動するようになりました。それは仲間として、チームの一員として、友として。「日本人のヨシダ・アキラ」を認めてくれていることを、実感させてくれました。
「もう、ひとりじゃない、ここにも仲間がいる。」当時の自分にとってこれ以上に心強いものはありませんでした。
ある夜、見た
「…ダッベーロ?」(本当?)
というイタリア語の夢
右も左もわからない異国の地、もし他の日本人が近くにいたなら、きっと日本人だけで固まってしまいそうなものです。でも、私はあえてそれを避けるように、すすんでイタリア人との交流に専念しました。一刻も早く、彼らの習慣や文化に溶け込み、彼らを知り、彼らに自分を理解してもらうことに専念するために。
その結果は思いのほか早い時期に現れました。3ヶ月弱たったある夜、とうとうイタリア語の夢を見たのです。「その世界」では、イタリアの仲間とイタリア語で会話している私がいて、それも極めて自然な雰囲気で。
これまで日本語だけで構成されていた脳が、イタリア語を受け入れたのだと思います。5~6ヶ月も経つころには、ふと頭で考えるのもイタリア語、自分の思った内容、それも微妙なニュアンスを含め、イタリア語ですらすらと話せるようになりました。イタリア語、そしてイタリア人の感性を学習し、彼らが普段使う「生きた言葉」で相手と意思疎通する。このコミュニケーションがもたらしてくれたものは「仲間との絆」でした。「あの日本人、いつも一生懸命頑張ってるよね」「アキラっていうんだって」「思ってたほど下手じゃなかったよ」「話してみたらいい奴だったよ」…ついにはピッチの内外問わず、大きく私の生活に影響しはじめます。
「一緒に帰ろうぜ、アキラ!」
「よう、アキラ!今日はウチでメシ食っていくだろ?」
「アキラ!あの新しく出来たお店、知ってる?」
「なあ、アキラ!もちろんお前も行くだろ?」
それまでひとりぼっちだった私を、仲間がいつも誘ってくれるようになり、連れ立って外出し、遊んだり食事したり…常に一緒に行動するようになりました。それは仲間として、チームの一員として、友として。「日本人のヨシダ・アキラ」を認めてくれていることを、実感させてくれました。
「もう、ひとりじゃない、ここにも仲間がいる。」当時の自分にとってこれ以上に心強いものはありませんでした。
仲間は無理に増やすものではない、踏み出す自分次第で自然に増える。
ご存知のようにイタリアのカルチョ・リーグには日本人以外にも、ブラジル人やアルゼンチン人、スペイン人、イギリス人などなど、さまざまな国籍の選手が大勢います。スペイン語圏や英語圏での生活から、突如イタリア語しか通じない世界へやってきたばかりの彼ら、そこで感じるコミュニケーション面の苦労…それは、かつて私が味わったものと全く同じもの。だからこそ、かつて私がしてもらって嬉しかった、心強く思えたように、今度は私から彼らに話しかけてあげたいと思い、行動しました。共に頑張ってイタリア語を話すこと、それは一緒に学び、励まし合い、互いに努力し、分かり合い、理解しようとすること…この姿勢や掲げる目標はチームメイトとしてあるべき姿そのものなのです。必然的に友情や仲間意識は深まるでしょうし、互いの国民性や文化、生活習慣、思想や嗜好の違いを知ることで相手への理解も深まります。
相手を知り、相手を理解する。そして、自分も理解してもらえるようになる、チームの中での自分の場所を得るために必要なのは、本当に少しの踏み出す勇気だと私は考えます。
仲間は無理に増やすものではない、
踏み出す自分次第で自然に増える。
ご存知のようにイタリアのカルチョ・リーグには日本人以外にも、ブラジル人やアルゼンチン人、スペイン人、イギリス人などなど、さまざまな国籍の選手が大勢います。スペイン語圏や英語圏での生活から、突如イタリア語しか通じない世界へやってきたばかりの彼ら、そこで感じるコミュニケーション面の苦労…それは、かつて私が味わったものと全く同じもの。だからこそ、かつて私がしてもらって嬉しかった、心強く思えたように、今度は私から彼らに話しかけてあげたいと思い、行動しました。共に頑張ってイタリア語を話すこと、それは一緒に学び、励まし合い、互いに努力し、分かり合い、理解しようとすること…この姿勢や掲げる目標はチームメイトとしてあるべき姿そのものなのです。必然的に友情や仲間意識は深まるでしょうし、互いの国民性や文化、生活習慣、思想や嗜好の違いを知ることで相手への理解も深まります。
相手を知り、相手を理解する。そして、自分も理解してもらえるようになる、チームの中での自分の場所を得るために必要なのは、本当に少しの踏み出す勇気だと私は考えます。
コミュニケーションを通じ、現地で得られる生きた外国語まで手に入る。
また、苦労と引き換えに得られたものは友情以外にも非常に大きく、生活にも必要な「言語」というコミュニケーションツールもそのひとつ。様々な国の選手と交流するうちに、私も今では日本語、英語、イタリア語、スペイン語の4ヶ国語を、それも現地で「生きた言葉」として習得することができました。時にチームを率い、チームや若手を指導する立場になった私にも、よく同時通訳をする機会があります。選手に対しそのイタリア人監督やコーチが、どんな熱意をもって、どんな気持ちで指示や指導を出しているか、その微妙なニュアンスの違いや語気の強さが、そのまま伝わるかどうか…私にとっても私に続く選手にとっても、非常に大きなことのはずです。さらには、カルチョ以外のステージをも見据える、国際人としての将来を考えるならば、なおさら大切なこと。学校で教わる外国語じゃ伝わらない熱意、意欲、好感…これらを自分のものに出来た時、それは大きなアドバンテージ以外の何物でもありません。
コミュニケーションを通じ、
現地で得られる生きた
外国語まで手に入る。
また、苦労と引き換えに得られたものは友情以外にも非常に大きく、生活にも必要な「言語」というコミュニケーションツールもそのひとつ。様々な国の選手と交流するうちに、私も今では日本語、英語、イタリア語、スペイン語の4ヶ国語を、それも現地で「生きた言葉」として習得することができました。時にチームを率い、チームや若手を指導する立場になった私にも、よく同時通訳をする機会があります。選手に対しそのイタリア人監督やコーチが、どんな熱意をもって、どんな気持ちで指示や指導を出しているか、その微妙なニュアンスの違いや語気の強さが、そのまま伝わるかどうか…私にとっても私に続く選手にとっても、非常に大きなことのはずです。さらには、カルチョ以外のステージをも見据える、国際人としての将来を考えるならば、なおさら大切なこと。学校で教わる外国語じゃ伝わらない熱意、意欲、好感…これらを自分のものに出来た時、それは大きなアドバンテージ以外の何物でもありません。
考え方の違う多くの人達。これまでの常識ではなく、新たに学び成長できる場所。
フレンドシップや言葉の大切さについては先にも述べましたが、海外の多くの国の人たちの文化や常識を身をもって学べること。そこには国内では絶対に体験できなかった貴重なものもたくさんあります。
たとえば、多くのイタリア人は楽天主義であり、頑張るときは頑張るが、休みは休み。今日を生きて今日を楽しむという生き方です。一方、日本人に有りがちなのは、常に勤勉で礼儀正しく、妥協や甘えを許さない…時にはマジメすぎる、ストイックなほど努力家であることでしょう。確かに練習熱心、礼儀正しいことは、海外でもいい印象を持ってもらえます。しかし練習のし過ぎ=「あれほど練習していてもミスする」と、本番に弱い印象、メンタル面での未熟と取られることすらあるかもしれません。まして、彼らの生き方とはある意味真逆、見習ってもらえるどころか、ちょっと近づきにくい印象すらないでしょうか?日本人のもつ良さはしっかり残しつつ「ONとOFF」をちゃんと切り替えるなど、彼らの良い所も学ぶことで、自分も毎日を楽しむことができるようになりますし、他文化への理解や迎合も可能になるのです。そうして始めて「どの世界でも、様々なよさを吸収し、生きていける人間」になれるのです。
考え方の違う多くの人達。
これまでの常識ではなく、
新たに学び成長できる場所。
フレンドシップや言葉の大切さについては先にも述べましたが、海外の多くの国の人たちの文化や常識を身をもって学べること。そこには国内では絶対に体験できなかった貴重なものもたくさんあります。
たとえば、多くのイタリア人は楽天主義であり、頑張るときは頑張るが、休みは休み。今日を生きて今日を楽しむという生き方です。一方、日本人に有りがちなのは、常に勤勉で礼儀正しく、妥協や甘えを許さない…時にはマジメすぎる、ストイックなほど努力家であることでしょう。確かに練習熱心、礼儀正しいことは、海外でもいい印象を持ってもらえます。しかし練習のし過ぎ=「あれほど練習していてもミスする」と、本番に弱い印象、メンタル面での未熟と取られることすらあるかもしれません。まして、彼らの生き方とはある意味真逆、見習ってもらえるどころか、ちょっと近づきにくい印象すらないでしょうか?日本人のもつ良さはしっかり残しつつ「ONとOFF」をちゃんと切り替えるなど、彼らの良い所も学ぶことで、自分も毎日を楽しむことができるようになりますし、他文化への理解や迎合も可能になるのです。そうして始めて「どの世界でも、様々なよさを吸収し、生きていける人間」になれるのです。
THEMA3
遠回りもあった。
でも、あのイタリアへの一歩が今の自分を作ってくれた。
現代は誰でもネットで調べれば何でもわかる、何でも手に入る、とても便利な世の中。だが、そうではなかったことで、否応にも起こさなくてはならなかった行動、起こさねばと思う強い気持ち…それが気付かせてくれたこととは「自分に必要なものは、自分の目や耳を使って探し出し、見つけていかないといけない、さもなくば生きてすら行けない」という世界。「今となってはそれも良かったのかも」…そう言える域までは、まだあどけない少年にとって過酷すぎる道のりだっただろう。
運良く若き日に買うことが出来た「買ってでもすべき苦労」。
日本で実績を積み、ようやく海外に。最近ではそんな日本選手も確かに増えています。ですが、やはり若き日に「日本人とは考えも違う世界、全く違う土俵」で体験すること、学ぶこと、苦しい思い出や楽しい思い出を経験することがあり、そして若い時代だからこそ吸収でき、自分の中で昇華させ、新しい自分の世界を切り開き、新しい自分を見つけることは容易なのです。なぜなら、自分の中で完全に出来上がっている自分のイメージや可能性の限界、そういった固定概念に縛られることがない、無限という状態なのですから。
がむしゃらにもなれるでしょうし、プライドも気にせずしゃにむに飛び込めるでしょう。そして、海外の彼らにも、その姿勢はきっと受け入れられるはずです。
…そう語る私、「吉田輝」自身がすでに体現したのですから。
こちらで過ごした10数年という年月。それがもたらした多くの仲間たち…例えば、かつてTVの中で応援するだけの存在だったヴィエリやマルディーニといった有名選手との深い交流、そこで持ち上がった新たなファッションという新たなビジネスへの誘い。日本から渡欧してきた日本を代表する選手たちとの交流の中で声を掛け合い生まれる自発的なチャリティやイベント企画。念願のオーナー兼選手というチーム運営野道…
17歳のあの日から…今思えば「遠回りもあったけど」と片付けるには、かなり過酷で厳しい道程でしたが、今の私を作るには、間違いなく、あの時になくてはならなかった必要な道のりなのです。
運良く若き日に買うことが出来た
「買ってでもすべき苦労」。
日本で実績を積み、ようやく海外に。最近ではそんな日本選手も確かに増えています。ですが、やはり若き日に「日本人とは考えも違う世界、全く違う土俵」で体験すること、学ぶこと、苦しい思い出や楽しい思い出を経験することがあり、そして若い時代だからこそ吸収でき、自分の中で昇華させ、新しい自分の世界を切り開き、新しい自分を見つけることは容易なのです。なぜなら、自分の中で完全に出来上がっている自分のイメージや可能性の限界、そういった固定概念に縛られることがない、無限という状態なのですから。
がむしゃらにもなれるでしょうし、プライドも気にせずしゃにむに飛び込めるでしょう。そして、海外の彼らにも、その姿勢はきっと受け入れられるはずです。
…そう語る私、「吉田輝」自身がすでに体現したのですから。
こちらで過ごした10数年という年月。それがもたらした多くの仲間たち…例えば、かつてTVの中で応援するだけの存在だったヴィエリやマルディーニといった有名選手との深い交流、そこで持ち上がった新たなファッションという新たなビジネスへの誘い。日本から渡欧してきた日本を代表する選手たちとの交流の中で声を掛け合い生まれる自発的なチャリティやイベント企画。念願のオーナー兼選手というチーム運営野道…
17歳のあの日から…今思えば「遠回りもあったけど」と片付けるには、かなり過酷で厳しい道程でしたが、今の私を作るには、間違いなく、あの時になくてはならなかった必要な道のりなのです。
ついに、吉田の気持がカルチョファンタスティコへと繋がる。
「私の苦労とまでは言わないが、夢に向かって飛び出す若者を応援したい」
サッカー選手、フットサラーとして、そして海外でグローバルな活躍を遂げる国際人として、前途有望な若者の夢を手伝ってあげたい。それはなにも私自身がたどってきた遠回りの道じゃなくていいはずだろう。
ほんとうに必要な精神や心持ち、考え方や学び方は私にも教えてあげられるはずだから。サポートもイタリアに10数年ずっと暮らし続け、街も知り尽くした私にならできる。コネクションも、パートナーシップだってどこにも誰にも負けない。
若者が将来「昔、あの時にチャレンジしたことが、本当に今の私をつくった」
吉田輝と同じ気持を味わえる場所を提供し、お手伝いするのはいつしか
私自身の夢にもなったのです。
ついに、吉田の気持が
カルチョファンタスティコへと繋がる。
「私の苦労とまでは言わないが、
夢に向かって飛び出す若者を応援したい」
サッカー選手、フットサラーとして、そして海外でグローバルな活躍を遂げる国際人として、前途有望な若者の夢を手伝ってあげたい。それはなにも私自身がたどってきた遠回りの道じゃなくていいはずだろう。
ほんとうに必要な精神や心持ち、考え方や学び方は私にも教えてあげられるはずだから。サポートもイタリアに10数年ずっと暮らし続け、街も知り尽くした私にならできる。コネクションも、パートナーシップだってどこにも誰にも負けない。
若者が将来「昔、あの時にチャレンジしたことが、本当に今の私をつくった」
吉田輝と同じ気持を味わえる場所を提供し、お手伝いするのはいつしか
私自身の夢にもなったのです。